2013年 08月 02日
堀辰雄の作品を読んで(ネガティブな印象)
逆に、「何じゃ、これ?凄い文章だね。これをありがたく疑問を持たずに読んでいたのかな」、と首をかしげる場面が何度もあった。一つは、余りに長い一文が随所に見られること。もう一つは、「これ、日本語?」と思わされる文章。ネットの言い方だと「日本語でOK」というツッコミが付くタイプのものだ。
前者について言えばこんな具合だ。
『菜穂子』より
「此の世に自分と息子とだけいればいいと思っているような排他的な母の許(もと)で、妻まで他処(よそ)へ逐(お)いやって、二人して大切そうに守って来た一家の平和なんぞというものは、いまだに彼の目先にちらついている、菜穂子がその絵姿の中心となった、不思議に重厚な感じのする生と死との絨毯(じゅうたん)の前にあっては、いかに薄手(うすで)なものであるかを考えたりしていた。」
何が薄手だって?と読み直してしまう。
それから「いまだに彼の目先にちらついている、菜穂子がその絵姿の中心となった、不思議に重厚な感じのする生と死との絨毯」の部分。しばらく前、若者の奇妙なしゃべり方として話題になった言葉の切り方そのまま。分かりづらい。
「彼女よりももっと痛めつけられている身体でもって、傷いた翼でもっともっと翔(か)けようとしている鳥のように、自分の生を最後まで試みようとしている、以前の彼女だったら眉をひそめただけであったかも知れないような相手の明が、その再会の間、屡々(しばしば)彼女の現在の絶望に近い生き方以上に真摯(しんし)であるように感ぜられながら、その感じをどうしても相手の目の前では相手にどころか自分自身にさえはっきり肯定しようとはしなかったのだった。」
「自分の生を最後まで試みようとしている」のは誰なのか。「自分の生を最後まで試みようとしている、以前の彼女だったら」と書いてあるのだから、この人の読点の打ち方からすると、とりあえず彼女だと思わされる。でも、続きを読んでみるとそういう意図ではなかったと気づく、という構造。まるで判じ物。どう読んでも書き言葉の日本語の文章とは思えない。
『美しい村』より
「夏はもう何処にでも見つけられるが、それでいてまだ何処という的(あて)もないでいると言ったような自然の中を、こうしてさ迷いながら、あちこちの灌木の枝には注意さえすれば無数の莟(つぼみ)が認められ、それ等はやがて咲(さ)き出すだろうが、しかしそれ等は真夏の季節(シイズン)の来ない前に散ってしまうような種類の花ばかりなので、それ等の咲き揃(そろ)うのを楽しむのは私一人(ひとり)だけであろうと言う想像なんかをしていると、それはこんな淋(さび)しい田舎暮(いなかぐら)しのような高価な犠牲(ぎせい)を払(はら)うだけの値(あたい)は十分にあると言っていいほどな、人知れぬ悦楽(えつらく)のように思われてくるのだった。」
ん?何が悦楽だって?と、また読み返してしまう。
また、「これ、日本語?」、「日本語でOK」のやつの例。
『美しい村』より
「が、それが私の奇妙な錯覚(さっかく)であることを、やがて私のうちに蘇(よみがえ)って来たその頃の記憶(きおく)が明瞭(めいりょう)にさせた。」
「昔から自分の気に入った型(タイプ)の人物にしか関心しようとしない自分の習癖(しゅうへき)が、」
「同じように黒ずんだ壁(かべ)、同じような窓枠(まどわく)、その古い額縁(がくぶち)の中にはいって来る同じような庭、同じような植込み、……ただそれらの植込みに私の知っている花や私の知らない花が簇(むら)がり咲いているのが私には見馴(みな)れなかった。」
「私の方では、その大きな見知らないような男の子が昔私と遊んだことのある子供であるのを漸(や)っと認め出していた。」
こういう文章に接すると、ドイツ語か何かの直訳ですか?と感じるのが自然ではないか。まあ、良く言ってこなれていない。
要するに、私は教養主義で読んでいただけだったのか。つまり、これは『文豪』の著した『名作』なのだからありがたいものなのだ、素晴らしい内容を表現した正しい文章なのだと自分に思い込ませて、読みにくいなあという自分の感性を押し殺して読んでいたのだろうか。まあ、そうなんでしょうね。何十年かして、今、私はそういう態度から自由になっている。それは、結構なことなのだと思う。
この方の作品は歴史的に見れば立派なものだったのかも知れないが、現在、読むべき価値があるかと問われたら、『どうせだったら、その時間、現代の名作を読んだ方が良いんじゃない?』と答えたい。また、もし本人が今生きているとしたら、自分の書いた文章に満足できるだろうか、と考えてみると・・・・・・・『出来ないでしょう、そりゃ。書き直すのに違いない』、と思うのだ。
参考になると思い、はるさんのブログを観ましたが
ブログだけでもうお腹がいっぱいになりました。
堀辰雄の作品を読みきる自信がもてそうにないことが
事前にわかって良かったです。
意味のある読書を阻害してしまったのだとしたら申しわげありません。三つの作品の中では、「風立ちぬ」は比較的マシかな(こんな言い方、とんでもなく傲慢に聞こえるかもしれませんが、正直な感想です)と思いますが、いずれの作品にも現代の小説を読んで魅了されるようなものは無いと感じました。作家の文章力は、時代とともに随分進歩したんだなあと思います。私が文学の専門家でなく素人だからこそ言えることだとは思いますが。
いま美しい村、風立ちぬを読み終えました。
同感で…一文が長すぎて理解しずらい、文法も現在に当てはめるとおかしい
→情景が浮かんでこない
→何度も読み返してしまう
→疲れる
→読み終わったあと「??」というのが最初の感想
私のような凡人には読了できない作家さんでした
お出で頂きありがとうございます。
同じように感じられる方がいて、安心しました。
小説というのは学問の文章とは違い一般人に読ませるものですから、一般人が読んで駄目なら駄目な文章という結論にならざるを得ないと思います。無理をしてあげ奉ることはないなと思っています。
小説は楽しめたり感動できるかどうかがすべて。権威にかまけて貴重な時間を無駄にしたり、自分の感性をごまかしたりするのは意味がないなあと感じています。
でも、こういうものをただでで読ませてもらえる青空文庫には感謝しています。